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1.本論考の趣旨
■ 本論考の動機
私にとって、『Kanon』は本当にもったいない作品でした。
名作の片鱗が散見されながら、同時に、「構造」の段階でのイベント選定、すなわち「機能」にいくつか致命的ミスが見られ、「演出」も、必ずしも成功したものではありません。掲示板における肯定派と否定派の論争も、名作の片鱗に重点を置いた肯定派と、「構造」「演出」のミスに重点を置いた否定派の、見解の齟齬に求められるのだと考えます。
そこで、本論考では、文芸論の立場から、『Kanon』の「主題」「様式」「構造」「機能」「演出」を、特に、「主題」と「様式」が生み出す「構造」を詳細に検討した上で、『Kanon』のシナリオライターが、本当に描きたかった世界を明らかにしてみたいと思います。その中で、肯定派が言う名作の片鱗と、否定派の言う「機能」「演出」の失敗を、明らかにしてみたいと考えるのです。
結論を先取りすれば、『Kanon』のシナリオライターが描きたかった世界とは、私は、ジュヴナイルファンタジーであると考えます。はっきり言って、私の見解は明らかに少数意見でしょう。ネット上でよくある意見としては、『Kanon』のテーマは、「絆」であるとか、EVAの後継者であるなどがあります(ジュヴナイル)。または、『Kanon』とは、おとぎ話であるとか、「奇跡」がテーマであるといった意見も散見されます(ファンタジー)。しかし、私に言わせれば、そのどれもが違います。『Kanon』のシナリオライターが描きたかった世界は、本当のジュヴナイルであり、本当のファンタジーだったのです。EVAのような、ただひたすら内向的、内罰的でジュヴナイルになり切れていない作品ではありません。甘いふわふわとした、子供だましのつくり話・おとぎ話でもありません。ただ、少年少女の純な思いが凝縮した本当のジュヴナイルであり、ファンタジーが持つ逆説的表現を存分に活用し尽くした本当にシビアなファンタジーだったのです。それが、肯定派の言う名作の片鱗だったのです。
では、『Kanon』は、私の言う、本当のジュヴナイル、本当のファンタジーを描き切れたかと言えば、決してそんなことはありません。むしろ、本当のファンタジー、本当のジュヴナイルを描こうとした気持ちだけが先走り、結局、否定派の言う「構造」「演出」でいくつもの失敗をしていると考えます。
■ 本論考の前提
なお、「主題」「様式」「構造」「演出」の定義と相関関係については、いつか「作品を作ると云うこと、作品を評すると云うこと」で論じる予定です。ここでは、本論考に必要な範囲で説明します。ここでは、論証を省略させていただきます。
「主題」とは、テーマ。すなわち、「愛」「友情」といったものです。作品を見るとき、みなさまの多くがまずここに目を向けることでしょう。というより、大学入試や読書感想を通じて、まずテーマに目を向けるよう教育されています。「作者が伝えたかったことを、20字以上40字以下で書きなさい」というやつです。しかも、ここでテーマというと、一般に、「愛の大切さ」「愛こそすべて」など、「教訓」「価値観」を意味することが多いようです。
「様式」とは、ジャンル。ファンタジー、SF、ホラー、ミステリーなど、作品の世界観を決するものの他に、学園ものやスペースオペラなど、作品の舞台を決するもの、小説で書くか映画を作るかそれともゲームにするかといった、作品を表現するためのメディア選択をも意味します。
こう書くと、「主題」と「様式」は簡単に区別できるもののように見えますが、実際の区別は困難を極めます。また、実を言えば、そんなに区別する実益はないかもしれません。例えば、ミステリーは、「謎解き」という「様式」と共に、「謎」という「主題」を与えます。両者は多分に不可分な関係に立ちます。ただ、右区別を通じて、絶対に論じなければならないことがあります。それが劇作家平田オリザの言葉です。
「伝えたいことなど何もない。でも表現したいことは山ほどあるのだ」
平田オリザは、ここで「伝えたいこと」を「伝えるべき主義主張や思想や価値観」と定義しています。平田オリザは「愛こそすべて」とは叫びません。「伝えたいことなど何もない」のです。ただ、「恋する二人」(あるいは、三角関係なのかもしれませんが)を「表現したい」のです。「恋する二人」を見て、観客に何かを感じ取って貰いたいのです。
平田オリザは、恋愛関係を書きたいと思いました(「主題」)。そこで、研究所を舞台とします(「様式」)。平田オリザは、『カガクするココロ』で「研究所における恋愛関係」を伝えようとしました。そして、それで終わりなのです。決して観客に、「愛こそすべて」「愛することの大切さ」とは叫びません。「教訓」を与えようとはしません。『カガクするココロ』から観客が何を感じるか、「恋愛関係」についてどう解釈するかは、観客の自由なのです。
作品にとって「主題」は大切ですが、それは、世間一般で言うところの「愛することの『大切さ』」などではないのです。「主題」に「教訓」や「価値観」を求めてはいけません(※1)。それは本来、各人の心の中に留めておくべきものです。通常は、「愛すること」であったと論じるに留めておくのが無難です。
確かに、解釈論は、作品を通じて自己を深めることであり、それはそれで極めて重要なことですが、同時に、解釈論はあくまで主観的なものにすぎないことを自覚すべきです。逆に言えば、それを自覚した上で、解釈論を発表することは、相互に考察を深める意味で、極めて有意義なことです。更に言えば、その解釈論は「評論」であるべきでしょう。主観的とはいえ、その主観的なものをわかりやすく、客観的に伝える方が望ましいからです。客観、それが議論のはじまりであり、相互理解へのはじまりとなります。主観的なものを主観的なものに留めることを「感想」といい、主観的な心情を客観的に伝える努力をすることを「評論」といいます(※2)。
「主題」と「様式」は作品の「構造」に大きな影響を与えます。ここで「構造」とは、構造主義でいうところの構造、作品の骨格にあたる部分です。構造主義とは、ロシアの民俗学者ウラジーミル・プロップを先駆者とする、文学研究の一派です。自然言語に「文法」「構造」があるのと同じように、小説や映画といった作品のジャンルにも、それぞれのジャンルに固有の「文法」「構造」があると言う発想です。作品を読ませる、感動させる仕組みは、万国共通という発想です(私自身は、地域性を考慮する必要もあると思います。詳しくは、8.)。作品は常に、「機能(イベント)」の連続によって構成されています。その「機能」の連なりを「構造」と呼ぶわけです。「機能」とは、「恋に落ちる」「主人公の危機」といった、情報の固まりであり、従来、イベントと呼ばれてきた物です。ですから、構造主義とは、イベント「機能」において重要なことは情報を伝えると言う一点につき、情報さえ伝えることができればイベントの内容は問わないという発想なのです。例えば、主人公の危機が演出されるならば、崖から落ちかけるのも、馬から振り落とされるのも、猛獣におそわれるのも、すべて同じというわけです。どんなに奇抜な作品でも、「主題」「様式」が同じであれば、その「構造」で要求される機能は同一のものとなります。構造主義によれば、ヨーロッパの本格昔話は、どれも同じ構造を有するそうです(鈴木晶『グリム童話──メルヘンの深層』講談社現代新書)。後は、そのイベントをどう「演出」するかで作品ごとに差がでてくるだけです。
とはいえ、ありきたりなテーマをどのように「演出」するか、それこそが作者の腕の見せ所です。そういう意味で、それをどう見せるか、どう伝えるか、「演出」こそが作品にとってもっとも大切と言えましょう。
「演出」の難しさ、その「演出」を解釈することの重要性を理解した上で、本論考では主に、解釈論ではなく、構造論を論じてみたいと思います。構造論は解釈論の前提を提供します。本論考を通じて、みなさまがより一層深く『Kanon』を解釈できることを期待いたします。
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